2010年の13年ぶりのツアー「ひふみよ」からおよそ2年、東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアルで全12回に渡って行われる小沢健二のライヴ「東京の街が奏でる 小沢健二 コンサート 二零一二年 三月四月」を観る。
なお、私が観たのは4月5日の第八夜。この時点であと四回の公演を残していたので、いちおう記事のポストは自粛していたのだが、明日が最終第十二夜ということもあり、もういいか、ということで掲載。もちろん、この記事はネタバレ含むので、明日の最終第十二夜に行く方などはご注意。見たい人のみ「続きを読む」からどうぞ。
実はチケットの抽選に全て落選していたのだが、抽選に当選した、とある神な方から一枚確保して頂いて観ることができた。まずは確保、融通してくださった方に感謝。
2年前の「ひふみよ」は観ていたので、その時のような、13年ぶりからくる圧倒的なカタルシスはなかったけど、タケミツメモリアルの響きの美しさやストリングにあわせたアレンジ、そして、甘美でありつつも、小沢のギターやベースの中村キタローの演奏はタイトでカッコよく、楽しいコンサートであった。特に、個人的にはBack To Backには、まさか聴けるとは思わなかったのもあり、これには痺れた。
編成はおなじみ真城めぐみ (Cho.)と中村キタロー (B)、それにストリングスのカルテット、バイオリン (奥村愛、山名玲奈)、ヴィオラ (南かおり)、チェロ (遠藤真理)という小規模編成。私が観た席は最後列ということもあり音圧が足りない印象もあったが、タケミツメモリアルの響きもあると思うが、ストリングスを加えて全て変えたというアレンジがもう最高。このアレンジを忘れたくなくて、かき消されたくなくて、リリース音源など聴けなくなったほど。やばい。ぜひ、このコンサートも音源化して欲しい。
ただ、ちょっとノリにくかった、というのが正直なところ。このあたりが私の中で最重要ミュージシャンのライヴでありながら圧倒的カタルシスを得ることができなかった原因か。例えば、日替わりゲストのオープニング・モノローグから、小沢のモノローグ、そして1曲目の新曲「東京の街が奏でる」まで約30分。まあ、このくらいなら長年ファンをやっていれば、さもありなん、という感じで、このあたりは慣れたものなのだが、この後も数曲毎にはさみこまれるモノローグで流れがブツ切れとなってしまい、ノリにくいという印象があった。「ひふみよ」ライヴの時は流れを断ち切らないように、朗読はコンパクトに、かつ、ライヴ全体のグルーヴ感を損なわない工夫がされていたように記憶しているが、その感じが今回はなかったのはちょっと残念と思った。
このコンサートについて、東京オペラシティだけの公演という意味も含めて、小沢曰く「壁画」となぞらえた。だけど、寧ろモノローグありきのオペラ的なものだったのかなというのが個人的な印象。だからハコは東京オペラシティで、ストリングスのアレンジで、グルーブ感は殺がれるがモノローグのパートがあって、そしてクライマックスに感情を爆発させたかのような「ある光」、、、などと、そんなふうなことを思った。
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- Opening Monolog (沖祐市 ex.東京スカパラダイスオーケストラ)
- 振り子〜愛と憎しみの果てに (Monolog)
- 東京の街が奏でる
- さよならなんて云えないよ
- ドアをノックするのは誰だ?
- いちょう並木のセレナーデ
- 今夜はブギー・バック/あの大きな心
- 小走り (Monolog)
- あらし
- いちごが染まる
- それはちょっと
- Believe (Monolog)
- 天使たちのシーン
- おやすみなさい、仔猫ちゃん!
- Back To Back
- 大人の世界 (Monolog)
- 東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー
- 僕らが旅に出る理由
- 強い気持ち・強い愛
- 春にして君を想う
- 人の身体、街の身体 (Monolog)
- 暗闇から手を伸ばせ
- 愛し愛されて生きるのさ
- ラブリー
- ある光
- 神秘的 (ものかたりす)
- ドアをノックするのは誰だ? featuring 沖祐市 (Session)
- 東京の街が奏でる
さて。曰く「それは意図していない」と言っても、どうしても意識してしまうのが小沢とアンチグローバリズムについて。
かつて、プラダの靴が欲しいの
(ex. 痛快ウキウキ通り)と歌い、ある意味グローバリゼーション的な、あるいはある意味ネオリベラル的にみえていた小沢が、グローバリゼーションの象徴かのような街、東京で、東京だけで公演するというのならなんとなく分かるが、童話小説「うさぎ!」以降、反グローバリズムに転向したかのように映る小沢が、なぜ、東京だけの公演を選んだのかっていうのが、不思議というか意外だった、というのが最初の感想だった。
ちょっとハナシがそれるが、大衆音楽のリリックとは、とくに光景描写の部分においては写実的であるべきという考え方があって、聴いた瞬間に情景がすぐ浮かんでくるようなものこそが、多くの人々に届いて共感を得ることができ、また、多くの人に残っていくものだと思っている。だから、実在の地名などの固有名詞がでてくるような、要するに受け手に必要以上の教養を要求するようなものは、あんまり好ましくないと思うし、その固有名詞に対する知識や想像力が働かなければ、それはただの「記号」としかならず、本質的な意味で受け手に届かないのでは?とずっと思ってきている。その意味で、平易かつキャッチーな語彙ながら、日本語がまるで違うもののように響くような感覚がある小沢の歌詞は基本的には好きなのだが、地理的観念に頼る部分が多く (ex. 東京タワー、公園通り、いちょう並木、etc...)、そこが残念なところなんだよなー、ってずっと思ってきた (もちろん、全てではなく、ある意味では素晴らしいアクセントとなり、それでしかありえないものもあるけれど)。
でも、おそらく意図的に「東京」を意識したコンサートを聴いてみて、そういえばこの人は、首都とか日本の中心とか、そういうのをとっぱらった、生活の、暮らす場所としての東京をずっと歌ってきたのだったなあ、と、そんなことを思った。そういう意味では、やっぱりアンチグローバリズム的な文脈から外れてないと思うし、もしかしたら昔からそうだったのかもなー、などと、そんなことを考えた。
ま、小沢と反グローバリゼーションというテーマや、思いもかけずハナシにでた「大衆音楽のリリック」、そして「なぜ固有名詞でたたみかける『今夜はブギーバック』はそれでも名曲なのか」というテーマについては、また別の機会にでもしようwww
さらに余談。とあるファンのひとりが、iTunes用のアルバムアートワークを作品集「我ら、時」のパッケージからつくって、それをゲリラ的にfacebookにアップしたものが、後にひふみよサイトを通して容認されたというか、いわゆるお墨付きとなった。ちょっとイイ話だと思った。
- Artist: 小沢健二
- Title: 我ら、時
- Label: ドアノック・ミュージック
- Catalog#: DK1
- Format: CD BOX
- Price: 15,000YEN
- Released: March 21st, 2012
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